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メリヤスの起源・歴史について

slouch&chic 当WEBショップは、本社が墨田区石原にあります。先日、テレビ東京の「アド街ック天国」で放送されました両国です。相撲・国技館の街というイメージが強いと思いますが、江戸の頃、両国を抱える本所(現在の墨田区南部)一帯は、昔からメリヤス産業が盛んな街でした。現在でも沢山のメリヤスの会社があり、活躍しています。今回はメリヤス産業の起源から歴史までをご紹介いたします。

ニットの起源

ニットの起源は、考古学的には紀元前1世紀頃と推定されていますが、はっきりと時代を判定できる最も古い編み物の資料は、3世紀のものです。3つの断片が、西暦256年に滅びたシリアの都市ドゥラから見つかっています。また、黄褐色のウールで編まれた小さな帽子がエジプトのバナサの墓から出土しました。本格的な手編みの技術を完成させたのはアラビアの遊牧民族だったとされます。更に高度な技術の、編み目を増やしたり減らしたりした指先の分かれた編みソックスが4世紀~5世紀のエジプトのコプト時代の遺跡から発見されました。これらの靴下はイギリスの博物館に所蔵されています。

また、カイロの古代都市の遺跡フォスタットで発掘された7世紀~9世紀頃の編み物は、1インチに36目も入っている精巧な物でした。他に、帽子も編まれていたようで、これらの発見は、編み物の技術がこの時代からすでにあった事を物語っています。中世以降はアラブがエジプト征服により技術を高め、8世紀には刺繍や編み物の技術をイスラム文化と共に西欧に広がったと伝えられています。

靴下の発展は防寒衣料としての必要性のほか、聖職につく人が足を不浄な大地に付けないために着用し、布教と共に広がっていったとも伝えられています。エジプトからスペイン、ヨーローッパへと技術が広がり、手編みが広く普及していたことは、1395年頃の宗教画の中に、4本の木の針で聖なる子供の上着を編んでいる聖母マリアが、画家マイスター・ベルトラムによって描かれている事によって明らかです。また、エリザベス1世(1558年-1603年)が靴下を愛用していた記録があり、初めて手編みの靴下をはいた時「もう二度と布製の靴下は履きたくない」ともたらされた事が、J・ストーの「イギリス年代記」に記されています。

 

 

編み機の発明

16世紀の中頃、手編みメリヤスが栄えていたエリザベス1世女王時代の1589年、イギリスの牧師「ウィリアム・リー」が1589年に編機を発明しました。ウィリアム・リーは、愛する妻が身を粉にしてして編み仕事を続ける姿を見るにつけ、妻の仕事をもっと楽にしてあげたいとの思いから機械化を決意します。そして9年の研究の末、独創的な手動の編立機械を完成させます。

最初の編機は、ゲージの粗い物しか編めず、1分間に200目を編むものでした。その後、改良を重ね、細い絹糸も編めるようになり、1分間に1000目編めるようになったと伝えられています。当時、ウィリアム・リーは、エリザベス女王に特許を申請しましたが、エリザベス女王はこれに特許を与えませんでした(ここでいう特許とは、王室に上納金を払う代わりに、独占的に製造、販売する権利の事です)。女王が特権を与えなかった理由には、機械が普及する事によって、多くの人が失業するのを恐れたからだと考えられています。それも、当時最も懸念された社会問題が失業や不完全雇用でした。その頃の編機は羊毛で丈夫な男性用のタイツを作るのに向いており、一般的な手編みと競合するものでした。仕方なく、リー一家はイギリスを捨てフランスパリに移住し、研究を続け、そこで絹を使って作る事に成功しましたが、ウィリアム・リーはビジネスの成功を見ずして1610年に生涯を終えました。しかし、編機と技術は、弟ジェームスと弟子らに引き継がれ、改良を重ね、イギリスへと戻り、イギリス経済を支える事となり、順次ヨーロッパ各国に普及していきました。

 

ウィリアム・リーについて諸説あり?!

ウィリアム・リーは宣教師でした。彼が編機に情熱燃やした理由は、愛する妻の為と書きましたが、諸説あるようです。「妻」ではなく、「好きになった女性」であったり、「手編みで靴下を編む女性に失恋した」というのもありました。こちらは、イギリスの作家サミュエル・スマイルズの成功伝集「自助論」の一説です。
「その原因はリーの失恋です…。リーは村に住む若い女性に心を寄せるのですが、彼女は靴下を編んだり、それを自分の生徒に教えるのに熱心で、彼には全く無関心でした。彼女のそっけない態度でリーは手編みの事が大嫌いになり、それならば靴下の編み機を作り、この世の中から手編みを一掃してしまおうと決意したのだというのです」と・・・そして、この話は明治期の文部省発行錦絵にも取り上げられています。(右絵)

どういう経緯で、編機製作に取り組んだのか、はっきりとは分かりませんが、努力と才能を持ち合わせ、情熱をもってした発明ではないでしょうか。今日、私たちが快適に履いている靴下は、ウィリアムの怨念?お陰である事は確かなことではないでしょうか・・・。

その後、編機は1664年には650機程でしたが、1750年には14000機に激増し、手編みの仕事がなくなる事はありませんでしたが、徐々に押されていきました。その後、1849年にイギリス人マシュー・タウゼントがべら針を発明、更に1864年には、今もコットン編機として名が残っている、古ファッションの靴下編み機をウィリアム・コットンが完成させました。

メリヤスの伝来

日本にニットがいつ頃、どのように入ってきたのか詳しい資料は残されていませんが、織田、豊臣の時代に渡来した西欧人が手編みの靴下を着用していたことは、当時の風俗画で想像が出来ます。

そして、南蛮貿易が始まった永禄10年~寛永12年後半、これは1567年~1635年、つまり16世紀半ば~17世紀後半に、メリヤスという言葉が生まれました。ポルトガル語の「メイアス」、またはスペイン語の「メディアス」がなまったもの、またはそう聞こえたのが「メリアス」で、「メイアス」と「メディアス」はどちらも靴下を指す言葉です。当て字には「女利安」「女利夜須」「女利弥寿」などが使われていたようです。

また、文化、文政の頃(1804年~1830年)には、手編みは江戸の浪人や小禄の武士の間で、内職として広く行われるようになりました。編み棒には細い鉄の棒を用い、靴下の他、刀のつか袋やつば袋、印籠下げ、鉄砲を扱う時の防災手袋などへと応用範囲が広がっていきました。また、「女利弥寿」から「莫大小」へと書くようになったのもこの頃からでした。石川公勤という人が文政9年(1826年)に書いた「緩草小言」に、

めりやすというものは、のびちぢみありて、人の腕の大小あれど、いづれへもよくあうものなり。さらば大小と莫く合うという義にてあるべきや。

とあります。これは、【莫く】は【無い】という意味ですので、メリヤスは「大きくも無く、小さくも無く」という意味になります。また、この「莫大小」の語源は大体同じなのですが、由来には諸説あるようで、明治10年(1877年)、大政大臣の三条実美が勧業博覧会に出品された莫大小製品を見て、伸び縮み自由という事で、「大小に莫く(良く)合う」と書き、「莫大小=メリヤス」と読ませるように指示したともありました。

水戸光圀公のメリアス足袋(靴下)

徳川の時代の資料が残っており、水戸光圀公の遺品である7足の長靴下が現存しています。これらは、昭和35年に水戸家の菩提寺から発見されました。絹製が3足(茶色、ベージュ、ウグイス色)、綿製が4足(無地)で、現在の編立て技術では作られない精巧な靴下として貴重な物です。いずれも、長崎が開港された1571年から鎖国令の1639年の間に入荷した物、または徳川家光が1632年以降に与えたとも考えられています。

光圀公生存中の延宝(1673年~1681年)、徳川家綱の時代には、長崎にて手編み靴下が作られ、お土産として江戸に運ばれたと言われており、「洛陽集」に 唐人の 古里寒く めりやす足袋 とあります。

江戸時代から明治時代の本所の街

【写真は、狂歌絵本「絵本隅田川 両岸一覧」(墨田区蔵)※両国橋の賑わい】

江戸時代、世界最大の人口を誇る江戸の街。最大の繁華街である両国を抱える本所一帯(現在の墨田区南部)は、全国の大名屋敷が大小並び、また多くの職種の人々が同じ地に家を構え、武家から商人まで多くの人が集まった職住一帯の町、江戸八百屋町と言われ、多くの様々な人々が住んでいました。

本所ほど武士や庶民が日常で交わった地域も珍しく、庶民の日常にも、社会としての公の意識が随所に含まれ育まれる地域性がありました。その精神は同じ江戸の中でも、地域ごとに違いがあり、日本橋のような商業主体とした地域、浅草のような観光を主体とした地域。地域経営とは異なる武士道による発想交わる地域文化が、様々な物事への意識へ育まれ、江戸人情ともいう言葉が本所一帯で流行します。

時代劇の舞台でもある通り、江戸時代後期の本所の人口は爆発的に膨らみ国内随一の盛り場「両国の両国橋」の往来は毎日忙しい程に活気に溢れ、栄えました。多種の意識や産業が生まれ、問屋街や観光地が隣接し、水運にも恵まれた中で、本所の地は商工業共に江戸時代より発展しました。情報が行き交い、所狭しと賑やかに存在する本所ですが、地域の北の位置にある向島には当時まだ広い土地も多く残っていました(現在の向島の地は本所地区です)。向島は、多くの粋人達により「三囲をおいて江戸は語れず」とも言われた三囲神社をはじめとした憧れの江戸の景勝地として、浮世絵にも多く描かれた江戸きっての行楽地でした。向島の料亭街からはファッションを含む、当時の多くの流行が発信され、新しいものが常に生まれ、育つ地域でした。人々の様々な時間の調和がバランス良く熟され、本所一帯は江戸時代からの人口の多さから、多くの人々の経験によって、様々な物事が大量に生まれ、人情文化とそこに武士の意識の歴史等が交わり、「粋」という精神の表現に整っていきます。

江戸時代が終わると、本所では多くの国内近代産業が生まれ、育ちます。明治に入ると、旧武士層における商工業の誕生へと繋がっていきます。その意識は、形こそない物ですが、明治・大正・昭和と多くの国内産業史へと繋がっていきます。それは、働く行為の中に公の意識が地域全体として育ち、武士道と商業道徳との調和と、公共の為の精神が存在する世界でも稀にみる、本庄地域特有の産業が色濃く際立って見えていきます。明治時代は、メリヤスをはじめとした国を上げての産業の創造、国富増強という意識の中に、日本の未来を繁栄させる個を超えた高い意識を元にして、国内近代産業・メリヤス産業はスタートします。

 

近代国家産業と本所

明治4年(1871年)の廃藩置県以後、士族授産が行われ、本所には大名屋敷の数も多かったことから、次々と藩を上げて改革へ乗り出します。武士たちは、武士道と商業の調和を念頭に、新しい時代へと入っていきます。全国的には、士族授産は上手く行かなかったと言われていますが、本所では、数少ない士族授産を実施成功したという例を持つ藩が他の地域よりも多くあり、個人で始める人もいれば、大規模な共同組織で工場を開設するケースもありました。

同時期、下総の国の旧佐倉藩士であった西村勝三(1837年-1907年)は、明治3年に横浜の外国商館で、はじめてメリヤス機械(小丸平編み機)を見て、その機械に付いていたカタログを翻訳し、初めてメリヤスの機械である事を知ります。日本において初めて機械編みを紹介した西村勝三は、国富増強の為に様々な事業を後に起こした渋沢栄一からの進めで、国内初のメリヤス靴下工場を明治5年築地に建設しました。西村勝三は、明治6年にオーストリアの首都ウィーンで開催された万博博覧会(大隈重信参議を総裁として日本が参加した)へ行き、メリヤス機械を購入し持ち帰ります。明治7年には、メリヤス機械の国産第一号を作り、これが国内機械編み普及の第1号となりました。

その後、西村勝三は、全ての製造設備を明治9年11月向島須崎町へ移し、メリヤスの国内大量生産が始まります。本所一帯では、武士たちが本格的にメリヤス作りに取り組むようになっていきます。付近にあったいくつもの大名屋敷がメリヤス工場へと更に転向していきました。本所の地は士族授産で全国の旧武士像を受け入れ、メリヤスをはじめ、多くの近代国家産業を生んでいきます。士族授産によって、津軽藩飯田家老の出資により、明治6年本所松坂町に設立した勧工社、東京メリヤス業界のパイオニアとうたわれた勧工社初代の高見澤作太郎もまた、明治時代に本所の地へ弟子入りし、伝習所へメリヤス行をスタートした人です。

他に両国にある矢の蔵の信州松本藩による共同社をはじめ、藩主が自ら施設を備え開業したもの、家老が出資者となって開業したもの、あるいは同志が相談して開業した物など各種タイプがあり、多くは小丸機による靴下の製造でした。他に、メリヤス工業、綿糸紡績業、マッチ、石鹸、セメント、ガラス、発電事業など、外国より導入された新しい産業が多く、そのほとんどが本所の地で創造されています。国内産業創造への意識の芽生え、武士の精神が活きたメリヤスをはじめとする産業は、日本の土壌に根を下ろし成長を続けて行きました。

多くの武士達からメリヤスの産業が栄えていき、本所はメリヤス産業の一大拠点となっていき、国内メリヤス産業の発祥の地と言われる所以となりました。その後、大阪や名古屋等の全国各地でメリヤス産業が生まれていきますが、東京は常に産地をリードしていました。

西村勝三は、明治維新に際して「国家富強の基礎は商工業の発展にある」と看破し、社会を常にリードしました。西村勝三の国家としての事業を担う精神は一生を通じて変わることが無く、類稀な勇気と努力を持って、「世のため、人のため」になる事ならと、メリヤスをはじめ、靴、、皮革、耐火レンガ、ガラスなどの近代産業を同時期に創業し、明治の工業の父と云われ、メリヤス靴下製造を導きました。

明治20年(1887年)頃から国内紡績が始まり、企業の努力も実り、質の高い製品が生産されるようになりました。洋装の進展によって需要も拡大していきます。明治33年(1900年)には東京職工学校が本所区林町に設立され、教育、地域活性化と一体の活動もまた本所の地から国内へと広がっていきました。

大正時代に入ると、服装が着物から洋装へと変わり、工場で働く人も急増し、国内工業化が急ピッチで進み、メリヤス産業は一段と大きく成長していきます。当時、メリヤス業界では、いい加減な製造が横行し、金儲けにだけ走り、粗悪品を製造する人も出てきましたが、本所でのメリヤスの多くは、真摯な取り組みと、徹底した品質管理に徹し、更に横縞の高さや、本数、間隔などで柄を作りバラエティに富んだファッションをも生み出して行きました。その後も、最先端の技術と産業の精神を求め、全国から弟子入りしに来る人々が多くいました。また、弟子入りした人々は独立を機に他の地域へと広がっていきました。本所で育った産業人は、本所に限らず、東京・国内各所で現在も多く活躍しています。

そして、現代・・・

機械編みが登場してから現在まで、幾多の戦火や災害を乗り越え、その都度焼野原となりながらも、復興を繰り返し、本所地区を中心とした東京メリヤス産地は、国内メリヤス産業発祥の地として脈々と続く歴史を背景に存在しています。

本所の産業は、同業者同士の歴史や伝統を重んじ、人情と強調を重視し、親交を深め、地域や産業へ貢献してきた人への敬意とその高い志を次世代へ真摯に引き継ぐことを大切にしてきました。この本所の精神を持って、今日まで多くの人が繋がってきたことにあります。

これまでも、不況の時代を幾度となく経験しながら、今日まで産業が続いてきた東京ニットファッション。そこには先人たちの日本の未来への熱い想いがたくさん詰まっています。未来を担う若きニット産業人に脈々と受け継がれてきたのですね。

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